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東京地方裁判所 平成7年(ヨ)3587号 決定

債権者

株式会社東京リーガルマインド

右代表者代表取締役

松浦哲哉

右代理人弁護士

河合弘之

吉野正三郎

奈良次郎

清水三七雄

河野弘香

本山信二郎

船橋茂紀

松井清隆

大川雅弘

債務者

伊藤真

西肇

右両名代理人弁護士

牧野二郎

平松重道

岡伸浩

主文

一  本件申立てをいずれも却下する。

二  申立費用は債権者の負担とする。

理由

第一  申立ての趣旨

債務者西肇は平成八年三月末日まで、債務者伊藤真は平成九年五月二五日まで、司法試験受験予備校及び塾の営業をし若しくはそれらを営業する会社の役員となり、又は司法試験受験予備校及び塾に勤務し若しくはそれらにおいて講師業務をしてはならない。

第二  事案の概要

本件は、レック(LEC)の名で知られ、司法試験受験予備校の大手である債権者において、その専任講師を務め監査役にも就任していた債務者伊藤真と、その代表取締役を務めその後監査役であった債務者西肇とが、債権者を退職後株式会社法学館を設立し、同社が営業主体となって司法試験受験指導を行う「伊藤真の司法試験塾」を開業したため、債権者が債務者伊藤真に対し競業避止義務を定める従業員就業規則、役員就業規則及び個別の特約に基づき、債務者西肇に対し役員就業規則及び従業員就業規則に基づき、司法試験受験予備校の営業等の差止めを求めて申し立てた仮処分命令申立事件である。

一  前提となる事実

1  債権者と各従業員及び各役員との競業避止特約の約定、債権者の就業規則の変更による従業員の退職後の競業避止義務に関する条項の新設、債権者の役員就業規則の作成と役員の退職後の競業避止義務に関する条項の新設

疎甲第八号証ないし同第一二号証、同第一八号証、同第二四ないし同第二六号証、同第四六、同第四七号証、同第四九ないし同第五二号証、同第六三号証、同第八九号証、同第九〇号証、同第九九号証の一ないし五、同第一四六号証の六、同第一四七号証及び同第一五八号証に審尋の全趣旨を併せて考えれば、次の事実を認めることができる。

債権者は、公認会計士試験、司法試験に合格した実績を有する反町勝夫(昭和五六年弁護士登録)が中心となって昭和五四年に設立され、司法試験の受験指導のほか、各種国家試験の受験指導、企業研修の実施を行う従業員数約六〇〇名(他にアルバイト等約八〇〇名)、年間売上げ約一一〇億円の企業である。債権者は、従業員数の増加に伴う人事管理の必要等から平成三年に従業員就業規則と企業秘密管理規程(書証として提出されているのは疎甲第一〇号証であるが、これは平成五年八月一日及び平成六年一月一日に改訂されたものである。)を作成した。

こうして作成された従業員就業規則においては、当初、労働契約存続中の競業避止義務を定め、これに違反した場合(債権者の承認を得ないで社外の職務に従事し、又は事業を始めた場合)を懲戒解雇事由として規定していたが、債権者は、平成三年一一月一日の取締役会の決議によって右就業規則の内容を変更し、労働契約存続中の競業避止義務に関する規定に加え、従業員の退職後の競業避止義務に関する条項を新設して、「従業員は、会社と競合関係にたつ企業に就職、出向、役員就任、その他形態のいかんを問わず退職後二年以内は関与してはならない。従業員は、会社と競合関係にたつ事業を退職後二年以内にみずから開業してはならない。」と規定し、平成三年一一月二〇日右就業規則の変更を所轄の中央労働基準監督署に届け出た(以下右により変更された債権者の就業規則を「本件就業規則」といい、右の変更を「本件就業規則の変更」という。疎甲第一四七号証が本件就業規則である。)。

債権者は、本件就業規則の変更に先立つ平成三年一〇月、従業員に「株式会社東京リーガルマインド代表取締役西肇殿……(中略)……私が、株式会社東京リーガルマインド(以下当社という)の業務に従事するについて、以下の事項を遵守することを誓約いたします。……(中略)……4 当社の企業秘密については、別に定める当社の「企業秘密管理規程」を遵守すること。5 当社を退職した後も下記の行為をしないこと。(1) 当社と競合関係にたつ企業に就職、出向、役員就任、その他形態のいかんを問わず二年以内に関与すること。(2) 当社と競業関係にたつ事業を自ら二年以内に開業すること。6 上記4、5に違反して、当社に損害が生じた場合は、その生じた損害につき賠償責任を負うこと。」と記載された誓約書(以下「本件従業員誓約書」という。)に署名捺印させてこれを提出させた(取下前債務者西村勝美が署名捺印したものとして疎甲第二五号証)。また、債権者は、平成三年一〇月一八日ないし二一日に、当時の各取締役及び監査役に、「株式会社東京リーガルマインド代表取締役西肇殿……(中略)……私が、株式会社東京リーガルマインド(以下当社という)の役員(取締役または監査役)に就任した後は、以下の事項を遵守することを誓約いたします。……(中略)……5 当社を退職した後も下記の行為をしないこと。(1) 当社と競合関係にたつ企業に就職、出向、役員就任、その他形態のいかんを問わず二年以内に関与すること。(2) 当社と競業関係にたつ事業を自ら二年以内に開業すること。6 上記1ないし5に違反して、当社に損害が生じた場合は、その生じた損害につき賠償責任を負うこと。損害の額は、当社の算出した額と推定すること。」と記載された誓約書(以下「本件役員誓約書」という。)に署名捺印させてこれを提出させた(疎甲第二四号証、同第二六号証、同第九九号証の一ないし五)。この誓約書の提出は、従業員に対して退職後の競業避止義務を記載してある本件従業員誓約書の提出を義務付けるのに、役員が同様の誓約書を提出しないのはおかしいという議論が出て、取締役会で議論された上、役員全員が本件役員誓約書を提出することになったものであった。

債務者伊藤真も平成三年一〇月一八日本件役員誓約書に署名捺印の上これを当時の債権者代表取締役西肇に提出した(疎甲第二四号証)。債務者西肇は本件役員誓約書を提出していないが、当時同債務者に本件役員誓約書の記載内容を誓約する意思がなかったからではなく、自身が代表取締役であったためである。

また、平成四年六月二七日の債権者の取締役会において、株主総会で選任された取締役及び監査役を対象とする役員就業規則(疎甲第九号証)が作成され、従業員の退職後の競業避止義務に関する条項と同様の条項が設けられることになる旨説明された。この取締役会には監査役であった反町勝夫のほか、各取締役及び監査役が出席しており、債務者らも出席していたが、特に異論も出なかった。本件役員就業規則の作成当時債権者の株式は実質的には反町勝夫にすべて帰属していたため、債権者はいわゆる一人会社であった。したがって、同人が出席して株主総会を開催し、当該株主総会で役員就業規則が作成されたものと考えられる(以下「本件役員就業規則」という。)。

債権者は、従業員が退職する際には、「株式会社東京リーガルマインド御中……(中略)……2 わたしが業務上知り得た貴社の秘密、ノウハウ等は退職後は絶対に他人に漏洩いたしません。3 貴社を退職後も下記の行為をしないことを誓約いたします。(1) 貴社と競合関係にたつ企業に就職、出向、役員就任、その他形態のいかんを問わず二年以内に関与すること。(2) 貴社と競合関係にたつ事業を自ら二年以内に開業すること。4 上記2、3に違反して、貴社に損害が生じた場合は、その生じた損害につき賠償責任を負います。」と記載された「貴社の企業秘密保持に関する誓約書」に署名捺印させてこれを提出させる扱いにしている(取下前債務者西村勝美が退職するに当たって署名捺印したものとして疎甲第一二号証)が、実際には全員が提出しているわけではない。

債務者らは、退職に当たって右の書式による「貴社の企業秘密保持に関する誓約書」を提出していない。

債権者が従業員及び役員に本件従業員誓約書、本件役員誓約書、「貴社の企業秘密保持に関する誓約書」を提出させ、企業秘密管理規程、本件就業規則、本件役員就業規則を作成又は変更したのは、平成五年法律第四七号による全部改正前の不正競争防止法が平成二年法律第六六号によって改正されて営業秘密の保護に関する規定が整備され、営業秘密の保護に対する関心が高まる中で、債権者において宅地建物取引主任者試験の受験講座担当者であった従業員が同業他社に引き抜かれ、当該同業他社において債権者のテキストとほぼ同じテキストが作成、使用されたため、債権者が当該同業他社を相手に著作権侵害を理由とする損害賠償請求訴訟を提起したことがあり(平成四年ワ第三五四九号)、債権者の役員の間で営業秘密の管理並びに競業避止義務を定める就業規則及び特約整備の必要性が認識されたためであった。

2  債務者らの債権者における地位と契約関係の終了

疎甲第一号証、同第五、六号証、同第一八号証、疎乙第号一証の一、二、同第三三号証によれば、次の事実を認めることができる。

債務者伊藤真は、昭和五六年以降債権者の看板専任講師として債権者の業務である司法試験指導に携わり、昭和六一年四月には監査役に就任した。同債務者は、平成七年三月に監査役を辞任し、同年四月退職金一〇〇〇万円を受領しており、同年五月二五日まで担当した講義の終了をもって債権者との契約関係は終了した(債務者伊藤真が債権者の従業員であったか否かは争点となっており、両者がいかなる契約関係にあったかは暫くおく。)。

債務者西肇は、昭和五七年ころから債権者において働くようになり、昭和五九年五月に取締役に就任し、昭和六一年四月から平成五年一二月まで代表取締役の、その後平成六年三月まで監査役の各地位にあった。同月債権者を退職した。

3  覚え書による合意

疎甲第九号証、同第一三号証、同第一八号証、同第六二号証、疎乙第一号証の一、二、同第二号証によれば、次の事実を認めることができる。

債務者伊藤真は、債権者の会長の肩書を有し債権者の意思決定の権限を有する反町勝夫との間で、反町勝夫が債権者のためにすることを示して、平成七年四月二四日、覚え書を取り交わして次の内容の合意をした。

(一) 債権者は債務者伊藤真の個人用として、同債務者の行った二年分の講義カセットテープ及び教材を引き渡す。

(二) 同債務者は、同債務者が行った講義に関する制作物一切の著作権・編集権が債権者に帰属することを確認する。

(三) 同債務者は、債権者を退職後、債権者と競合する他社の業務に参画し、若しくは、同債務者が債権者以外の者とともに、又はその者の下で、あるいは単独で、債権者と競合する業務を行う場合は、事前に債権者と協議する。ただし、同債務者は早稲田経営学院及び辰巳法律研究所とは、今後一切関わりを持たない。

(四) 同債務者は在職中、知り得た業務に関するノウハウ・秘密を漏洩しない。

(五) 債権者は、同債務者に対し、退職金一〇〇〇万円を支払う。

4  債務者らの競業行為

疎甲第一四号証の一ないし七、同第一八号証、同第六二号証、同第八九号証、疎乙第二八号証、同第三四号証ないし同第三八号証、同第三九号証の一、二、同第四〇号証の一ないし二二によれば、次の事実を認めることができる。

債務者らは、平成七年五月二日、国家試験、資格試験等の受験指導等を目的とする株式会社法学館を設立し、債務者西肇が代表取締役に就任したのを始めとして当初は同債務者の一族が取締役三名及び監査役一名からなる役員を占めていたが、同年五月二六日、うち取締役一名及び監査役が辞任し、取締役に債務者伊藤真の父伊藤勉、監査役に債務者伊藤真が就任した。債務者らは、取下前債務者西村勝美とともに、同年六月九日、反町勝夫のほか、債権者の取締役全員に対し、司法試験受験指導を行う機関を作り、司法試験受験指導を行うなどと告げた上、その直後から、大学生、司法試験受験生を対象に「伊藤真からの手紙」と題するパンフレットを頒布して司法試験受験指導を行う「伊藤真の司法試験塾」の講座に入会するよう勧誘し、同年六月及び七月には説明会を開いて講座申込を募集した。「伊藤真の司法試験塾」の講座は、同年一〇月から本格的に開始される。

二  争点

1  競業避止義務を定める特約に基づく競業行為の差止請求の可否、その要件

(債権者の主張)

競業行為の差止請求は競業避止義務という不作為義務の履行請求にほかならないから、競業避止義務違反の効果としては損害賠償請求のみならず競業行為の差止請求が認められる。

(債務者の主張)

競業行為の差止請求は、債務者の行為を排除して債権者の独占的な権利を確保する結果を来すものであるから、競業避止義務を定める特約がされたことから当然に競業行為の差止請求が認められるべきものではなく、営業秘密のように排他的な権利をもって保護するに価する重要な保護法益が存することを要する。債権者は、その主張に係る競業避止義務を定める特約は主として営業上の秘密を保護する目的のものであると主張するが、債権者の主張するレック体系は営業秘密とはいえず、著作物に該当するにとどまるから、著作権に基づく差止請求権が成立する理論上の可能性があるにしても、競業避止義務を定める特約に基づく差止請求権を肯定すべき保護法益には当たらない。従業員であった者が競業行為を行うことによる事実上の不利益は差止請求権を肯定すべき保護法益とはいえない。

2  債務者伊藤真及び債務者西肇の債権者会社における法的地位、債権者会社との関係

(債権者の主張)

債務者伊藤真は、昭和五六年以降債権者の専任講師を務めており、昭和六一年四月に償権者の監査役に就任したが、それ以後もその職務は監査役の職務にとどまらず、平成七年五月二五日まで債権者の専任講師として、債権者の定めるスケジュールに則り、債権者の定めた講義の仕方に従って講義を行うほか、毎日朝から出社し、専用机において講義準備や試験問題のチェックを行うなどの職務を遂行してきた。同債務者は債権者から人事異動の発令、業務命令を受け、債権者の指揮命令下において職務を遂行してきたのであり、同債務者は債権者から右職務遂行の対価として給与の支払を受けていた。したがって、同債務者は債権者の指揮監督下において労働力を提供して賃金を得ていた者であり、債権者の従業員(労働者)というべきである。

債務者西肇は、昭和五七年ころから債権者において働くようになり、昭和五九年五月に取締役に就任し、昭和六一年四月から平成五年一二月まで代表取締役の地位にあったが、その後監査役に就任し、兼ねて従業員としての職務を行っていた。平成六年三月まで監査役兼従業員の地位にあった。

(債務者の主張)

債務者伊藤真は、債権者の専任講師であったが、債権者と労働契約を締結してその従業員となったことはない。同債務者は、債権者の監査役であるとともに、反町勝夫の主宰する東京法律会計事務所に所属する弁護士であった。債権者は、反町勝夫に対して司法試験受験生向けの講義の講師派遣を依頼し、反町勝夫がこの依頼を応諾して東京法律会計事務所所属弁護士の債務者伊藤真に対し講師としての業務を行うよう命令し、同債務者がこの命令を受けて債権者において講師として講義を行っていたものである。

債権者の主張は、商法二七六条の兼任禁止規定に照らし、理由がない。

3  競業避止義務を定める本件就業規則の有効性、合理性

(債権者の主張)

本件就業規則における競業避止義務を定める条項は、情報産業における営業秘密及び諸ノウハウ保護の必要性や債権者の信用により独立する力を身につけた内部的競業者の適正な抑制(「債権者ブランド」の保護)の必要性に基づいて作成され、従来の裁判例の基準や他社の例に適合する合理的な内容のものである。

(一) 競業避止義務によって保護されるべき債権者の正当な利益

債権者には、従業員に退職後まで競業避止義務を課さなければ侵害されることになる正当な利益が存する。

まず、債権者は、保護に値する営業秘密やノウハウを有している。債権者は、初学者が学習しやすいように「レック体系」と呼ばれる新しい学習方法を考案して法体系を再構築し、法的三段論法で法律問題を思考し、表現する方式を教授する方法論を確立した。そして、司法試験に効率よく合格するという観点から、過去の司法試験問題の分析、研究に基づいて司法試験対策上必要不可欠な論点を選択し、各論点を「レック体系」及び法的三段論法の方法論で構成して表現したレックテキストを作成し、「レック体系」をマスターした専任講師を養成してきた。このようにして、債権者は、「レック体系」を表現したレックテキストと、これを講義する専任講師とが車の両輪となって受講生に「レック体系」を講義する方式、ノウハウを確立した。フローチャートや論点ブロックカード、各種教材類などを使用し、講義内容及び方法に工夫を凝らし、専任講師を養成するための独自の研修プログラムを開発し、これをマニュアル化して管理している。このような司法試験受験指導に関するノウハウは、債権者が独自に開発したものであり、保護に値する。

「レック体系」に基づいて再構築された法体系、その法的三段論法に貫かれた合理的思考方法並びに司法試験の出題傾向及び過去の問題の分析結果の集約等は、債権者において開発された「文書管理データベース」に蓄積され、管理されている。このデータベースにアクセスできるのは、債権者の文書管理部長が特別に許可をし、ユーザーIDカードとパスワードを付与された者だけである。債務者伊藤真も固有のユーザーIDカードとパスワードを付与されていた。

債権者は、司法試験受験指導の業務を行うため、開講前ガイダンス・説明会、専任講師による受験相談、チューター制度、クラスリーダー制度、大学生協との代理店契約及びこれに基づく従業員によるパンフレット配布、大学内就職部との契約に基づく大学内での講座の開催、独自に入手、蓄積した名簿及びこれに基づく電話・ダイレクトメールによる講座案内、勧誘、中心校あるいは通信事業本部での受講受付方法、中心校あるいは通信事業本部での受講料支払方法、教材発送、物流方法、売上管理方法からなる営業手法を開発し、マニュアル化して営業活動を展開してきた。債権者は、以上のような営業手法及び実績データを「LEX」と呼ばれるデータベースに蓄積している。「LEX」には、一九〇万件以上の受験生に関する取引データ、一七〇万件以上の受講生個人の受講履歴、三四万件の受講生の住所、成績データ等の情報が盛り込まれている。「LEX」によって管理されている営業上の秘密は、債権者の重要な財産を構成しており、営業秘密として法的保護に価する。

債権者は、組織管理上のノウハウを有しており、これは管理上の秘密というべきである。

以上のように、債権者は、司法試験受験顧客の名簿等の情報、司法試験その他の各種国家試験の受験講座に用いる教材に関する各種情報をコンピューターで管理するために、「LEX」と呼ばれる業務系列の情報管理システムと、「文書管理データベース」と呼ばれる文書作成系の情報管理システムとからなる二元情報管理システムを保有している。「LEX」は、顧客情報である受講生に関する情報や取引先である大学生協、印刷業者等との関係を含む債権者の設立から今日に至るまでの営業上、管理上のノウハウを蓄積しているものであり、重要な営業上、管理上の秘密にほかならない。債権者の文書管理データベースは、過去の司法試験問題、債権者の作成した問題、法律文献やその要約を蓄積しており、教材類の作成に関与するパスワードを所持するごく少数の者だけが使用を許されている非公開のもので、企業秘密として保護されるべき情報である。また、右文書類を整理、利用して教材及び試験問題を作成するノウハウは、債権者が独自に開発したものであり、保護に値する技術的ノウハウである。債権者は、これらの企業秘密を管理するため企業秘密管理規程を制定して秘密保持義務を課した上、秘密保護を担保するため本件就業規則及び本件役員就業規則において競業避止義務を定め、役員その他の職員から競業避止義務を負担する旨の誓約書を取っている。

債務者伊藤真は、債権者のこれら企業秘密の中で業務を行い、企業秘密を創造するリーダーであった。同債務者が競業行為を行えば債権者のこれら企業秘密を利用するおそれが強い。

また、債権者は、債務者伊藤真を看板専任講師として「受験界のエース」として宣伝してきた。司法試験受験界ではレックイコール伊藤真というイメージが定着していた。そのような重要な役割を果たしていた債務者伊藤真が債権者を退職後直ちに競業を開始し、司法試験受験生に対し、殊に債権者の受講生に関する情報を利用して債権者の受講生に対して債権者の受験指導や経営方針は間違っている、債権者の受講生は特別な条件で同債務者の授業を受講できると宣伝して自分の司法試験予備校の受講を勧誘すれば、債権者の営業権は違法に侵害されることになる。債権者には、営業権を違法に侵害されないという正当な利益が存する。

(二) 本件就業規則の定める競業避止義務の内容と相当性

本件就業規則の定める競業避止義務は、限定されたものであり、相当なものである。まず、競業禁止期間は、退職後二年間だけ存するという比較的短期間に限られたものである。次に、対象とする職種も、当該条項の文言上は「会社と競合関係にたつ企業」「会社と競合関係にたつ事業」と抽象的であるが、債権者は司法試験、国家公務員試験、司法書士試験その他の法律に関係する資格試験の受験指導及び受験情報提供サービスを現実の業務とする会社であり、競業避止義務の対象となる職種は右の範囲に限られ、実際上は債務者らの行っていた司法試験受験指導予備校の営業に関わるものに限られる。場所的には無制限であるが、競業避止義務の内容は、弁護士である債務者伊藤真をはじめとして、債務者らの生存を脅かすほど転職の自由を制限しているものではない。さらに、債権者に在職中、債務者伊藤真は年間金二二六五万円の報酬の支払と金四五六万円の社宅の提供を受け、債務者西肇は金一五〇〇万円の報酬の支払を受けていた。債務者らは債権者の役員であり、役員就業規則には役員に対する退職金不支給規定があるにもかかわらず、債務者伊藤真には金一〇〇〇万円の、債務者西肇には金五〇〇万円の各退職金を支払っており、これらは競業避止義務の十分な代償措置となっている。

(債務者の主張)

本件従業員就業規則には合理性がない。

4  競業避止義務を定める本件役員就業規則の効力

(債権者の主張)

本件役員就業規則は、従業員兼役員については、従業員としての地位に関する限りは一般の就業規則と同様の効力を有する。仮に右のようにいえないとしても、本件役員就業規則の競業避止義務を定める条項は、各債務者と債権者との間の役員たる地位に関する委任契約の内容として取り込まれている。

(債務者の主張)

監査役は取締役会から独立した機関であり、取締役会の決議に拘束されないから、本件役員就業規則は監査役に対して効力を生じない。また、本件役員就業規則には合理性がない。さらに、本件役員就業規則の競業避止義務を定める条項が、各債務者と債権者との間の役員たる地位に関する委任契約の内容として取り込まれていると解する根拠はない。

5  退職後の競業避止義務を定める特約の有効性

(債権者の主張)

債務者伊藤真が本件役員誓約書を提出することにより約定された退職後の競業避止義務を定める特約は、契約自由の原則により、公序良俗に反して無効とならない限り有効である。右特約が公序良俗に反しないことについては、3で述べたことから明らかである。

(債務者の主張)

債務者伊藤真の本件役員誓約書は、退職に当たって提出されたものではないから、退職後の競業避止義務を定める部分は、義務内容としての特定性、成熟性を欠き、競業避止義務を定める特約としては無効である。

仮に右主張に理由がないとしても、競業避止義務を定める特約の有効性を主張する者が右特約をすることの合理的事情を主張立証する必要がある。仮に右合理的事情が存するとしても、当該特約は公序良俗に反して無効である。すなわち、競業避止義務を定める特約は、職業選択の自由の原則に対する例外であるから、競業避止義務設定と対価関係を有する代償措置を執ることを要する。しかるに、債権者は債務者伊藤真が本件役員誓約書を提出することにより約定されたと主張する退職後の競業避止義務を定める特約について、何らそのような対価関係を有する代償措置を執っていない。また、右特約は地域性、職種の点で無限定になっているといってよい。右特約は公序良俗に反して無効である。

6  債務者伊藤真と反町勝夫との平成七年四月二四日付け覚書による合意と競業避止義務免除の成否

(債務者の主張)

債務者伊藤真は、債権者の会長の肩書を有し債権者の意思決定の権限を有する反町勝夫との間で、反町勝夫が債権者のためにすることを示して、平成七年四月二四日、覚え書(以下「本件覚え書」という。)を取り交わして次の内容の合意をした。この合意によって同債務者の競業避止義務は免除された。

(一) 債権者は債務者伊藤真の個人用として、同債務者の行った二年分の講義カセットテープ及び教材を引き渡す。

(二) 同債務者は、同債務者が行った講義に関する制作物一切の著作権・編集権が債権者に帰属することを確認する。

(三) 同債務者は、債権者を退職後、債権者と競合する他社の業務に参画し、若しくは、同債務者が債権者以外の者とともに、又はその者の下で、あるいは単独で、債権者と競合する業務を行う場合は、事前に債権者と協議する。ただし、同債務者は早稲田経営学院及び辰巳法律研究所とは、今後一切関わりを持たない。

(四) 同債務者は在職中、知り得た業務に関するノウハウ・秘密を漏洩しない。

(五) 債権者は、同債務者に対し、退職金一〇〇〇万円を支払う。

(債権者の主張)

本件覚え書は、債務者伊藤真が平成八年三月に行われる加須市長選挙に立候補すること、平成七年五月初めに妻とニューヨークに行くためその資金として退職金が欲しいことを述べたため、反町勝夫が同債務者が直ちに競業行為を始めるとは思いもせず、市長を務めた後債権者において受験指導を再開することを期待して、退職金の支払を了承して取り交わされたものである。本件覚え書は、同債務者の競業避止義務を直ちに解除するものではない。

7  保全の必要性の有無

(債権者の主張)

債務者らが役員を務めている株式会社法学館が営業主体となっている「伊藤真の司法試験塾」は、司法試験受験生に対して講座に入会するよう勧誘し、債権者の受講生の中にも「伊藤真の司法試験塾」に受講申込みをし、債権者の講座の解約と返金を求める者が現れている。債権者の平成七年度の講座には債務者伊藤真のビデオクラス講座が設けられており、同債務者が「伊藤真の司法試験塾」において同種の講座を持てば、債権者の被る損害は極めて大きい。また、同債務者は債権者勤務中に債権者受講生の学籍簿及び受講生カードを入手しており、これを利用して勧誘が行われれば、債権者の損害、受講生の混乱は深刻である。

(債務者の主張)

債務者らは、債権者の秘密情報その他の情報を所持せず、不正使用していない。債務者らは、何ら不正競業行為を行っていない。債権者は、自由競争に負けて打撃を受けたことがあるだけである。

第三  争点に対する判断

一  競業避止義務を定める特約に基づく競業行為の差止請求の可否、その要件(争点1)

退職した役員又は労働者が特約に基づき競業避止義務を負う場合には、使用者は、退職した役員又は労働者に対し、当該特約に違反してされた競業行為によって被った損害の賠償を請求することができるほか、当該特約に基づき、現に行われている競業行為を排除し、又は将来当該特約に違反する競業行為が行われることを予防するため、競業行為の差止めを請求することができるものと解するのが相当である。しかし、競業行為の差止請求は、職業選択の自由を直接制限するものであり、退職した役員又は労働者に与える不利益が大きいことに加え、損害賠償請求のように現実の損害の発生、義務違反と損害との間の因果関係を要しないため濫用の虞があることにかんがみると、差止請求をするに当たっては、実体上の要件として当該競業行為により使用者が営業上の利益を現に侵害され、又は侵害される具体的なおそれがあることを要し、右の要件を備えているときに限り、競業行為の差止めを請求することができるものと解するのが相当である。不正競争防止法三条一項は、不正競争によって営業上の利益を侵害され、又は侵害されるおそれがある者は、その営業上の利益を侵害する者又は侵害するおそれがある者に対し、その侵害の停止又は予防を請求することができる旨定めており、侵害するおそれがある者という要件を定めたのは、不正競争により利益を侵害されるおそれがないときにまで差止請求権を認めることは不当であるとの判断に基づくものであると解される。不正競争防止法三条一項は、契約上の義務の履行請求としての特約に基づく差止請求権の要件を定めているものではないが、同項の右趣旨は特約に基づく差止請求権の要件を考える上でも参考になるのであり、この点からいっても前記のように解するのが相当である。

したがって、競業行為の差止請求の可否を判断するに当たっては、競業行為によって使用者のいかなる利益が侵害されることになるのかが特に問題になり、単なる事実上の不利益が生ずるにとどまる場合には、競業行為の差止めを請求することはできないものというべきである(本件の競業行為の差止請求がその要件を備えるか否かはひとまずおく。)。

二  債務者伊藤真及び債務者西肇の債権者会社における法的地位、債権者会社との関係(争点2)

1  債務者伊藤真の債権者会社における法的地位、債権者会社との関係

第二、一、2において認定した事実に、疎甲第九一号証、同第一三七号証、同第一四八号証ないし同第一五六号証、同第一五七号証の一ないし四、乙第四号証の一ないし三を併せて考えれば、債務者伊藤真が昭和五六年以降債権者の専任講師を務め、昭和六一年四月に債権者の監査役に就任した後もその職務は監査役の職務にとどまらず、平成七年五月二五日まで債権者の専任講師として務めていたこと、債権者は、初学者が学習しやすく、司法試験に効率よく合格できるようにするという観点から、「レック体系」と呼ばれる学習方法を採用し、司法試験対策上必要不可欠な論点を選択し、各論点を「レック体系」及び法的三段論法の方法論で構成して表現したレックテキストを作成し、独自の研修プログラムの下に専任講師に「レック体系」をマスターさせるべく養成してきたこと、このように、債権者においては、「レック体系」を表現したレックテキストと、これを講義する専任講師とが車の両輪として位置付けられており、専任講師にはフローチャートや論点ブロックカード、各種教材類などを使用し、講義内容及び方法に工夫を凝らして受講生に「レック体系」を講義するように指導していること、債務者伊藤真も専任講師として債権者の定めるスケジュールに則り、債権者の定めた講義の仕方に従って講義を行うほか、毎日朝から出社し、専用机において講義準備や試験問題のチェックを行うなどの職務を遂行してきたこと、同債務者は、右職務のほか、債権者における司法試験事業本部(後に第一事業本部に名称変更)、開発本部に所属し、開発本部長を務めるなどして債権者の業務遂行に携わり、代表取締役宛てに業務報告書を提出するなど、債権者の最高幹部として業務を遂行していたこと、同債務者は所属していた東京法律会計事務所を主宰する反町勝夫から弁護士報酬として平成六年度で金九〇〇万円の支払を受けたが、それとは別に債権者から給料名目で金銭の支払を受け、その金額は平成六年度で金一三六五万円に上っていたこと、右各金銭の支払は同債務者が債権者から右職務遂行の対価として給与の支払を受けていたものということができること、以上の事実を認めることができ、右認定に基づいて考えると、同債務者は債権者の指揮監督下において労働力を提供して賃金を得ていた者であり、債権者の従業員(労働者)ということができる。

2 債務者西肇の債権者会社における法的地位、債権者会社との関係

前記認定事実に、疎乙第三三号証を併せて考えれば、債務者西肇は、昭和五七年ころから債権者において働くようになり、昭和五九年五月に取締役に就任し、昭和六一年四月から平成五年一二月まで代表取締役の、その後平成六年三月まで監査役の各地位にあったこと、同債務者は監査役に就任したものの、その職務の内容は監査業務ではなく、債権者の本部の移転に関する事務、講師の講義の点検管理等の事務であったこと、同債務者は右職務遂行の対価として給料の支払を受けていたこと、以上の事実が認められ、右認定事実に基づいて考えると、同債務者は代表取締役辞任後平成六年三月まで債権者の従業員として職務遂行に当たっていたものというべきである。

三 労働者の労働契約終了後の競業避止義務を定める就業規則の有効性(争点3)

1  労働者の労働契約終了後の秘密保持義務と競業避止義務

労働者は、労働契約に付随する義務として使用者の事業目的に反しその利益を損なう競業行為を行ってはならない義務(競業避止義務)を負うが、労働契約終了後は、職業選択の自由の行使として競業行為であってもこれを行うことができるのが原則であり、労働契約終了後まで右競業避止義務を当然に一般的に負うものではない。しかし、一定の限定された範囲では、実定法上労働契約終了後の競業避止義務を肯定すべき場合がある。

そのような場合としては、労働者の職務内容が使用者の営業秘密に直接関わるため、労働契約終了後の一定範囲での営業秘密保持義務の存続を前提としない限り使用者が労働者に自己の営業秘密を示して職務を遂行させることができなくなる場合を挙げることができる(営業秘密については、不正競争防止法二条四項が、秘密として管理されている生産方法、販売方法その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報であって、公然と知られていないものをいうと定義している。)。使用者にとって営業秘密が重要な価値を有することからすると、このような職務については、労働契約終了後も一定の範囲で営業秘密保持義務が存続することが、労働契約関係を成立させ、維持させる上で不可欠の前提となるといえるから、労働契約終了後の一定範囲での営業秘密保持義務の存続を認めざるを得ない。そして、このような営業秘密の保持の必要性は、退職後の労働者が営業秘密を開示する場合のみならず、それを使用する場合にも存するのであるから、退職後の労働者が元の使用者の業務と競合する行為を行う場合には、当該競業行為が不可避的に営業秘密の使用を伴うものである限り、営業秘密保持義務を担保するものとして競業避止義務を肯定せざるを得ない。このように労働契約終了後であっても一定範囲で競業避止義務が肯定されるのは、労働者の職務内容が使用者の営業秘密に関わるものであるため、労働者が職務遂行上知った使用者の秘密については、労働契約終了後であってもこれを漏洩しないという信頼関係が使用者と労働者との間に存在することに基づくものと考えられる。不正競争防止法は、窃取、詐欺、強迫その他の不正の手段により営業秘密を取得する行為だけに限らず、営業秘密を保有する事業者からその営業秘密を示された場合において、不正の競業その他の不正の利益を得る目的で、又はその保有者に損害を加える目的で、その営業秘密を使用し、又は開示する行為を不正競争の定義に加えており(二条一項七号)、故意又は過失による不正競争によって営業上の利益を侵害された者は損害賠償請求をすることができる(四条)のみならず、不正競争によって営業上の利益を侵害され、又は侵害されるおそれがある者は、その営業上の利益を侵害する者又は侵害するおそれがある者に対し、その侵害の停止又は予防を請求することができることとされている(三条一項)。同法の右規定は、契約関係に立つ者の間に存する契約終了後の規律に関する前記の信頼関係に着目し、労働者が信義則上営業秘密保持義務を負う場合において、不正の競業その他の不正の利益を得る目的で、又はその保有者に損害を加える目的で、その営業秘密を使用し、又は開示する行為を不正競争とし、損害賠償請求及び差止請求をすることができることとしているものと理解することができよう。すなわち、同法の右規定は、労働者が信義則上営業秘密保持義務を負うため労働契約終了後の競業避止義務を肯定すべき場合につきその要件及び効果を明らかにしているものであり、当事者間の契約なくして実定法上労働契約終了後の競業避止義務を肯定し得るのは同法の右規定が定めている場合に限られるものと解するのが相当である(競業行為に及ばない秘密保持義務については別論である。)。

使用者が、競業避止義務を定める特約により労働契約終了後の競業行為を回避したい理由は、労働者の職務内容が使用者の営業秘密に関わるため右競業行為による営業秘密の不正使用を防止したい点において最も顕著であるが、労働者が営業秘密には当たらないものの使用者が秘密として管理している情報を職務遂行上知った場合に、右競業行為によって当該情報が使用されることを防止したいこともあろうし、使用者の秘密とは関係なく、当該労働者を通じて企業イメージを形成した場合にそのイメージが崩れることを防止したいこともあろう。さらには、職務遂行を通じて力を蓄えた労働者が退職後に競業行為を行うことによって受ける事実上の不利益を避けたいという事情もあろう。そのいずれの場合であるかによって、競業避止義務を定める特約が公序良俗に反して無効となるか否かの判断をするに当たって考慮すべき事情、その価値的評価の在り方は、異ならざるを得ない。競業避止義務を定める特約が約定されたのが、もともと当事者間の契約なくして実定法上労働契約終了後の競業避止義務を肯定し得る場合についてであり、競業禁止期間、禁止される競業行為の範囲、場所につき約定し、競業避止義務の内容を具体化したという意味を有するときには、当該約定は、競業行為の禁止の内容が不当なものでない限り原則として有効と考えられる。これに対し、そのような場合ではなく競業避止義務を合意により創出する場合には、労働者は、もともとそのような義務がないにもかかわらず、専ら使用者の利益確保のために特約により退職後の競業避止義務を負担するのであるから、使用者が確保しようとする利益に照らし、競業行為の禁止の内容が必要最小限度にとどまっており、かつ、十分な代償措置を執っていることを要するものと考えられる。労働者は、使用者が定める契約内容に従って付従的に契約を締結せざるを得ない立場に立たされるのが実情であり、そのような立場上の差を利用して競業避止義務を定める特約が安易に約定されることがないとはいえないから、右のように解するのが相当である。

右の理は、就業規則において労働者の労働契約終了後の競業避止義務が定められた場合に、その合理性を吟味するに当たっても当てはまるものである。

以下においては、右の見地から、本件就業規則の変更の合理性について検討する。

2  労働契約終了後の競業避止義務を定める就業規則の合理性

労働条件とは、労働者が使用者に対し労務を提供する場合の賃金、労働時間、休暇、安全衛生等に関する諸条件であり、労働契約関係の内容をなすものである。労働契約終了後の競業避止義務の有無は、労働契約関係存続中の権利義務に関するものではないので、本来の労働条件には当たらない。そこで、労働契約終了後の競業避止義務を課することは、労働条件を定めるべき就業規則の対象に含まれず、実際に就業規則でその旨を定めても当該条項には就業規則の拘束力が働かないのではないかが問題になる。

しかし、既に述べたように、労働者の職務内容との関係において労働契約と密接に関連し、これに付随するものとして労働契約終了後の競業避止義務の法的効力を肯定すべき場合があるのであるから、労働者が労働契約においてその職務遂行に関し労働契約終了後の競業避止義務を負担するか否かは、労働条件に付随し、これに準ずるものととらえるのが相当である。就業規則は、使用者が事業の運営上労働条件を統一的、画一的に決定する必要があるため、労働条件を定型的に定めるものであり、それが合理的な労働条件を定めているものである限り、使用者と労働者との間の労働条件は、その就業規則によるという事実たる慣習が成立しているものとして、その法規範性が認められるに至っているものと解されている(最高大昭四三・一二・二五判、民集二二巻一三号三四五九頁、秋北バス事件)。労働者がその職務遂行に関し労働契約終了後の競業避止義務を負担するか否かをもって、労働条件に付随し、これに準ずるものととらえることが可能であるとすれば、労働者の個人的な事情ではなく、専らその職務内容との関係において労働契約終了後の競業避止義務を負担させるか否かが問題になるのであるから、使用者が事業の運営上労働条件に付随し、これに準ずるものとして統一的、画一的に労働契約終了後の競業避止義務を定める必要の存する場合を一概に否定することはできない。したがって、労働契約終了後の競業避止義務の負担は、それが労働契約終了後の法律関係である一事をもって就業規則による規律の対象となり得ること自体を否定する理由はなく、労働者に不利益な労働条件を一方的に課する就業規則の作成又は変更の許否に関する判例法理(最高大昭四三・一二・二五判、民集二二巻一三号三四五九頁、秋北バス事件、最高二小昭五八・七・一五判、判例時報一一〇一号一一九頁、御国ハイヤー事件、最高二小昭五八・一一・二五判、判例時報一一〇一号一一四頁、タケダシステム事件、最高一小昭六一・三・一三判、裁判集民事一四七号二三七頁、帯広電報電話局事件、最高三小昭六三・二・一六判、民集四二巻二号六〇頁、大曲市農業協同組合事件、最高一小平三・一一・二八判、民集四五巻八号一二七〇頁、日立製作所武蔵工場事件、最高二小平四・七・一三判、判例時報一四三四号一三三頁、第一小型ハイヤー事件)に照らしてその拘束力の有無を判断すべきものと解するのが相当である。すなわち、使用者が新たな就業規則の作成又は変更によって、既得の権利を奪い、労働者に不利益な労働条件を一方的に課することは原則として許されないが、その内容が合理的なものである限り、個々の労働者において当該条項に同意しないことを理由としてその適用を拒むことは許されないと解すべきところ、新たに作成又は変更された就業規則の内容が合理的なものであるときは、その必要性及び内容の両面から見て、それによって労働者が被ることになる不利益の程度を考慮しても、なお、当該労使関係における当該条項の法的規範性を是認できるだけの合理性を有することを要し、特に、賃金、退職金など労働者にとって重要な権利、労働条件に関し実質的な不利益を及ぼす就業規則の作成又は変更については、当該条項が、そのような不利益を労働者に法的に受忍させることを許容できるだけの高度の必要性に基づいた合理的な内容のものである場合において、その効力を生ずるものというべきである(最高三小昭六三・二・一六判、民集四二巻二号六〇頁、大曲市農業協同組合事件判決)。しかして、労働者は、労働契約終了後は、職業選択の自由の行使として競業行為であってもこれを行うことができるのが原則であり、労働契約終了後まで一般的に競業避止義務を当然に負うものではないのであるから、就業規則の作成又は変更によって労働者に労働契約終了後の競業避止義務を一方的に課することは、労働者の重要な権利に関し実質的な不利益を及ぼすものとして原則として許されず、労働者の職務内容が使用者の営業秘密に直接関わるなど、労働者の職務内容が使用者の保護に価する秘密に関わるものであるため、使用者と労働者との間の労働契約関係に、労働者が職務遂行上知った使用者の秘密を労働契約終了後であっても漏洩しないという信頼関係が内在し、労働者に退職後まで競業避止義務を課さなければ使用者の保護されるべき正当な利益が侵害されることになる場合において、必要かつ相当な限度で競業避止義務を課するものであるときに限り、その合理性を肯定することができ、右合理性の判断に当たっては、労働者の受ける不利益に対する代償措置としてどのような措置が執られたか、代償措置が執られていないとしても、当該就業規則の作成又は変更に関連する賃金、退職金その他の労働条件の改善状況が存するかが、補完事由として考慮の対象となるものというべきである。

3  労働契約終了後の競業避止義務を定める本件就業規則の不利益変更の合理性

これを本件について見るに、債権者は、従前の就業規則では労働契約終了後の競業避止義務を定めていなかったのに、平成三年一一月一日の取締役会の決議によって就業規則の内容を変更し、労働契約存続中の競業避止義務に関する規定に加え、従業員の退職後の競業避止義務に関する条項を新設して、「従業員は、会社と競合関係にたつ企業に就職、出向、役員就任、その他形態のいかんを問わず退職後二年以内は関与してはならない。従業員は、会社と競合関係にたつ事業を退職後二年以内にみずから開業してはならない。」と規定し、右規定によれば、競業行為の範囲を債権者と競合するものと包括的にとらえ、場所的限定もないところ(当該条項の適用を受ける従業員の範囲については後述する。)、平成六年四月一日から右変更後の就業規則を施行することとしたのであるから、従業員の不利益に一方的に就業規則を変更したことにほかならない。

そこで、本件就業規則の不利益変更の合理性について検討する。

(一)  債権者が前記のように就業規則を変更したのは、債権者の業務の性質上営業秘密の保護に対する関心が高まる中で、債権者において宅地建物取引主任者試験の受験講座担当者であった従業員が同業他社に引き抜かれ、当該同業他社において債権者のテキストとほぼ同じテキストが作成、使用されたため、債権者が当該同業他社を相手に著作権侵害を理由とする損害賠償請求訴訟を提起したことがあり(平成四年ワ第三五四九号)、債権者の役員の間で営業秘密の管理並びに競業避止義務を定める就業規則及び特約整備の必要性が認識されたためであった。

(二)  疎甲第四号証、同第四五号証、同第七八号証、同第八八号証、同第九一号証、同第一三〇号証の一ないし五、同第一三一号証ないし同第一三六号証によれば、債権者は、司法試験受験顧客の名簿等の情報、司法試験その他の各種国家試験の受験講座に用いる教材に関する各種情報をコンピューターで管理するために、「LEX」と呼ばれる業務系列の情報管理システムと、「文書管理データベース」と呼ばれる文書作成系の情報管理システムとからなる二元情報管理システムを保有していること、「LEX」は、六年前に開発されたシステムで、顧客情報である受講生に関する情報として、一九〇万件以上の受講生に関する取引データ、一七〇万件の個人の受講履歴、三四万件の受講生の住所、成績データを蓄積しているほか、各支店での売上状況等の営業上、管理上のデータを蓄積しており、あらかじめユーザーIDとこれに基づくパスワードを付与された特定の社員だけが「LEX」にアクセスできることとし、他の者はアクセスできないように管理されていること、債権者の文書管理データベースは、各種国家試験の教材の開発、作成に関するデータを管理するシステムであり、過去の司法試験問題、債権者の作成した問題、法律文献の要約のほか、他の国家試験に関する情報、企業や官公庁から依頼を受けて債権者が行った調査研究情報も蓄積されていること、文書管理データベースについても、あらかじめユーザーIDとこれに基づくパスワードを付与されたごく少数の教材類の作成に関与する者だけがアクセスできることとし、他の者はアクセスできないように管理されていること、債権者には文書管理データベースを使用して受験指導用の教材及び試験問題を作成するシステムとノウハウが存在しており、これに関する文書は企業秘密管理規程に基づいて「社外秘」の指定を受けていること、以上の事実が認められる。

右認定に基づいて考えると、まず、債権者の「LEX」と呼ばれる業務系列の情報管理システムに蓄積されているデータには、秘密として管理されている債権者の事業活動に有用な営業上の情報であって公然と知られていないもの、すなわち、営業秘密に相当するものが含まれているといえる。これに対し、債権者の文書管理データベースの蓄積データに営業秘密に相当するものが含まれていることについては疎明があったとはいえないが、文書管理データベースを使用して受験指導用の教材及び試験問題を作成するノウハウについては、これが営業秘密に該当する可能性があり、すくなくとも保護に価する企業秘密ということができる。

(三)  本件就業規則の定める競業避止義務の相当性

本件就業規則の定める退職後の競業避止義務条項は、その適用対象となる従業員の職種について、文言上は従業員の職務内容が前記認定の使用者の保護に価する秘密に関わるものである場合に限定しておらず、従業員一般を対象としているもののように読めるのであり、当該条項が文言どおりの内容を定めているものであるとすれば、競業禁止期間が退職後二年間だけ存するという比較的短期間に限られたものであることを考慮しても、合理性を欠くものといわざるを得ない。しかし、本件就業規則には従業員に業務上知り得た秘密、ノウハウの保持義務を課する条項があり、本件就業規則における従業員の退職後の競業避止義務条項は、従業員に秘密保持義務を課することを前提に、右秘密保持義務確保の手段として従業員に退職後に競業避止義務を課することとしたものであると解することができ、その趣旨に照らして考えると、従業員の職務内容が前記認定の営業秘密及び企業秘密その他の使用者の保護に価する秘密に関わるものである場合に限り従業員に退職後の競業避止義務を課するものであると解するのが相当である。

本件就業規則の定める退職後の競業避止義務条項は、このようにその適用対象となる従業員の職種を限定しており、また、競業禁止期間は、退職後二年間だけ存するという比較的短期間に限られたものである。もっとも、競業行為として禁止される職種は、債権者の行っている司法試験、国家公務員試験、司法書士試験その他の法律に関係する資格試験の受験指導及び受験情報提供サービス業務に及び、必ずしも限定的なものとはいえないし、場所的にも無制限であるという問題がないわけではない。

右によれば、本件就業規則に従業員の退職後の競業避止義務条項が設けられるに至った背景には、債権者の従業員が同業他社に引き抜かれ、当該同業他社において債権者のテキストとほぼ同じテキストが作成、使用されたことがあり、社内で営業秘密の管理並びに競業避止義務を定める就業規則及び特約整備の必要性が認識されたという事情があったところ、債権者の「LEX」と呼ばれる業務系列の情報管理システムに蓄積されているデータには、営業秘密に相当するものが含まれており、債権者の文書管理データベースを使用して受験指導用の教材及び試験問題を作成するノウハウも保護に価する企業秘密ということができるのであって、債権者としては職務遂行上右各秘密に関わる従業員が退職後に競業行為を行うことによって右各秘密が漏洩することを防止する必要があるということができる。しかして、本件就業規則の従業員の退職後の競業避止義務条項は、従業員の職務内容が前記認定の営業秘密及び企業秘密その他の使用者の保護に価する秘密に関わるものである場合に限り退職後の競業避止義務を課するものであり、競業禁止期間も、退職後二年間だけ存するという比較的短期間に限られたものであって、競業行為として禁止される職種や場所の点で問題があることを考えても、限定的な内容のものであるということができる。

本件就業規則の従業員の退職後の競業避止義務条項は、労働者が職務遂行上知った使用者の営業秘密その他の保護に価する秘密を労働契約終了後であっても漏洩しないという使用者と労働者との間の労働契約関係に内在する信頼関係に基づいて発生する労働者の退職後の競業避止義務が、債権者の保護に価する秘密に関わる一定の従業員にも存することを前提にしつつ、競業禁止期間を退職後二年間に限定し、競業行為として禁止される職種を前記のように定めた上、場所については特に制約を設けなかったものと解することができるのであり、このような内容のものにとどまる限り、代償措置を執らなくても不合理なものとなるわけではないということができる。

以上によれば、従業員の退職後の競業避止義務条項を追加した本件就業規則の変更は、従業員に退職後まで競業避止義務を課さなければ債権者の保護されるべき正当な利益が侵害されることになる場合において、必要かつ相当な限度で競業避止義務を課するものであるということができ、その合理性を肯定することができる。

4  債務者らに対する本件就業規則の退職後の競業避止義務条項適用の有無

債務者伊藤真が監査役を兼ねながら債権者の指揮監督下において労働力を提供して賃金を得ていた者であり、債権者の従業員(労働者)ということができること及び債務者西肇が代表取締役辞任後監査役に就任したものの平成六年三月まで債権者の従業員として職務遂行に当たっていたことは、三で述べたとおりである。

本件就業規則は対象となる従業員を正社員と定め、本件役員就業規則は、従業員としての地位を有する取締役にはまず本件役員就業規則を適用し、本件役員就業規則に定めのない事項に関しては本件就業規則を適用することとし、本件役員就業規則にも退職後の競業避止義務を定める条項が設けられている。しかし、本件役員就業規則は、後記のとおり債権者と取締役又は監査役との間の委任契約の細目を定めるものであり、取締役又は監査役の各職務内容上秘密保持義務の存する場合につき競業避止義務を定めるものと解すべきであるから、債務者伊藤真のように従業員としての職務内容との関係上秘密保持義務の存することを理由に競業避止義務を肯定すべき場合については本件役員就業規則の退職後の競業避止義務を定める条項では賄えないものと考えられる。

同債務者は、昭和五六年以降債権者の専任講師を務め、昭和六一年四月に債権者の監査役に就任した後もその職務は監査役の職務にとどまらず、債権者の専任講師としての職務のほか、債権者における司法試験事業本部(後に第一事業本部に名称変更)、開発本部に所属し、開発本部長を務めるなどして債権者の最高幹部として職務を遂行しており、その職務遂行上文書管理データベースを使用して受験指導用の教材及び試験問題を作成するノウハウに関わる立場にあったものということができる。右職務内容に照らすと、同債務者については本件就業規則の退職後の競業避止義務を定める条項の適用があるものと解するのが相当である。なお、債務者伊藤真が職務上開発したノウハウ等もあり得るが、同債務者は本件役員誓約書に署名捺印して債権者の企業秘密管理規程を遵守する旨誓約しているところ、債権者の企業秘密管理規程によれば、債権者の役員及び従業員が職務上開発、製作した企業秘密を構成する情報は債権者に帰属することとされており、ノウハウの内容いかんによっては対価の支払が規定されていない問題点が残るとはいえ、同債務者の秘密遵守義務、したがってまた、競業避止義務を左右するとはいえず、前記の判断に影響を及ぼすものとはいえない。

これに対し、債務者西肇は、前記のとおり代表取締役辞任後従業員として職務を行っていたものの、当該職務内容が秘密保持義務、競業避止義務を招来させるようなものであったことについては主張疎明がないから、同債務者については本件就業規則の退職後の競業避止義務を定める条項の適用はないものと解するのが相当である。

四 競業避止義務を定める本件役員就業規則の効力(争点4)

1  本件役員就業規則の法的性質

本件役員就業規則は、株主総会で選任された取締役及び監査役を対象とするものであり、株主総会の決議によってその制定及び改廃が行われる(疎甲第九号証、役員就業規則第四条)。本件役員就業規則は、常勤の取締役及び監査役に適用され、従業員としての地位を有する取締役については、まず本件役員就業規則が適用され、この規則に定めのない事項に関しては本件就業規則が適用されることとされている(疎甲第九号証、役員就業規則第三条)。本件役員就業規則の内容は、取締役及び監査役の選任、退任に関する規定にとどまらず、職場における秩序規律の維持、事業場内の秩序保持、会社財産の保全、業務上の秘密保持、退任後の競業避止義務、入場の制限、入退場時間の制限、出退勤手続、職場を離れる際の手続、業務を行う場所、遅刻、早退及び私用外出並びに欠勤等に関する服務規律、就業時間、休憩、休日及び休暇、報酬、安全及び衛生等に関する詳細なものである(疎甲第九号証)。本件役員就業規則の作成当時債権者の株式は実質的には反町勝夫にすべて帰属していたため、債権者はいわゆる一人会社であった。したがって、同人が出席して株主総会を開催し、当該株主総会で本件役員就業規則が作成されたものと考えられる。

会社と取締役又は監査役との間の関係は委任に関する規定に従うのであり(商法二五四条三項、同法二八〇条一項)、右認定事実に基づいて考えると、本件役員就業規則は、債権者と取締役又は監査役との間の委任契約の細目を定める趣旨で作成されたものであるということができる。会社と取締役又は監査役との間の委任契約についても、委任契約の内容が統一的、画一的に決定され、取締役又は監査役が会社(株主総会)の定める契約内容の定型に従って、付従的に契約を締結せざるを得ない立場に立たされる実情が存しないわけではないと思われるが、役員就業規則については、労働条件を定める就業規則の場合のように、法令上規制と監督に関する規定が手当てされているわけではなく、その効力について定められているわけでもなく、会社と取締役又は監査役との間の委任契約の内容につき役員就業規則によるという事実たる慣習が成立しているということはできず、その法規範性を肯認することはできない。そうすると、役員就業規則については、債権者と取締役又は監査役との間の具体的な合意なくして委任契約の内容を規律する効力を認めることはできず、会社と取締役又は監査役との間の委任契約締結に際して、その細目は役員就業規則の定めるところによる旨の明示若しくは黙示の合意がされた場合又は会社と取締役又は監査役との間の委任契約締結後に両者の間で当該委任契約の内容を役員就業規則の定めるところに変更し若しくは補充する旨の明示若しくは黙示の合意がされた場合に、当該合意の効力として会社と取締役又は監査役との間の委任契約の細目を規律することになるものと解するのが相当である。この理は、本件役員就業規則にそのまま当てはまるものである。

2  債務者らに対する本件役員就業規則の効力

債権者が従業員及び役員に前記の各誓約書を提出させ、企業秘密管理規程、本件就業規則、本件役員就業規則を作成又は変更したのは、債権者において宅地建物取引主任者試験の受験講座担当者であった従業員が同業他社に引き抜かれ、当該同業他社において債権者のテキストとほぼ同じテキストが作成、使用されたため、債権者が当該同業他社を相手に著作権侵害を理由とする損害賠償請求訴訟を提起したことがあり(平成四年ワ第三五四九号)、債権者の役員の間で営業秘密の管理並びに競業避止義務を定める就業規則及び特約整備の必要性が認識されたためであった。本件役員就業規則の作成に際し、平成四年六月二七日の債権者の取締役会においてその内容の説明があり、従業員の退職後の競業避止義務に関する条項と同様の条項を設けられることになる旨説明された。この取締役会には各取締役及び監査役が出席しており、債務者らも出席していたが、特に異論も出なかった。

以上の事実は既に認定したとおりであり、この認定事実に基づいて考えると、債権者と各債務者との間の委任契約締結後に両者の間で当該委任契約の内容を本件役員就業規則の定めるところに変更し若しくは細目を補充する旨の黙示の合意がされたものというべきであり、当該合意により、各債務者は、債権者に対し、本件役員就業規則における退職後の競業避止義務に関する条項の内容(「役員は、会社と競合関係にたつ企業に就職、役員就任、その他形態のいかんを問わず退職後二年以内は関与してはならない。役員は、会社と競合関係にたつ事業を退職後二年以内にみずから開業してはならない。」)を約定したものと解するのが相当である。

そうすると、各債務者は債権者に対し競業避止義務を定める特約を約定したことに帰するのであり、右特約の有効性が問題になるのであるが、この点の判断は五において行う。

五 本件における競業避止義務特約の有効性(争点5)

1  労働契約終了後の競業避止義務を定める特約の有効性

一般に、このような競業避止義務を定める特約は、競業行為による使用者の損害の発生防止を目的とするものであるが、それが自由な意思に基づいてされた合意である限り、そのような目的のために競業避止義務を定める特約をすること自体を不合理であるということはできない。しかし、労働契約終了後は、職業選択の自由の行使として競業行為であってもこれを行うことができるのが原則であるところ、労働者は、使用者が定める契約内容に従って付従的に契約を締結せざるを得ない立場に立たされるのが実情であり、使用者の中にはそのような立場上の差を利用し専ら自己の利のみを図って競業避止義務を定める特約を約定させる者がないとはいえないから、労働契約終了後の競業避止義務を定める特約が公序良俗に反して無効となる可能性を否定することはできず、その判断に当たっては、競業避止義務を定める特約が、もともと当事者間の契約なくして実定法上労働契約終了後の競業避止義務を肯定し得る場合について、競業禁止期間、禁止される競業行為の範囲、場所につき約定し、競業避止義務の内容を具体化しつつ競業避止義務の存することを確認したものであるか、それとも、そのような場合ではなく競業避止義務を合意により創出するものであるかを区別する必要がある。前者の場合には、競業行為の禁止の内容が労働者であった者が退職後であっても負うべき秘密保持義務確保の目的のために必要かつ相当な限度を超えていないかどうかを判断し、右の限度を超えているものは公序良俗に反して無効となるものと考えられる。右の判断に当たっては、労働者が使用者の下でどのような地位にあり、どのような職務に従事していたか、当該特約において競業行為を禁止する期間、地域及び対象職種がどのように定められており、退職した役員又は労働者が職業に就くについて具体的にどのような制約を受けることになるか等の事情を勘案し、使用者の営業秘密防衛のためには退職した労働者に競業避止義務賦課による不利益を受忍させることが必要であるとともに、その不利益が必要な限度を超えるものではないといえるか否かを判断すべきであり、当該特約を有効と判断するためには使用者が競業避止義務賦課の代償措置を執ったことが必要不可欠であるとはいえないが、補完事由として考慮の対象となるものというべきである。これに対し、後者の場合には、労働者は、もともとそのような義務がないにもかかわらず、専ら使用者の利益確保のために特約により退職後の競業避止義務を負担するのであるから、使用者が確保しようとする利益に照らし、競業行為の禁止の内容が必要最小限度にとどまっており、かつ、右競業行為禁止により労働者の受ける不利益に対する十分な代償措置を執っていることを要するものと考えられる。

さらに、競業避止義務違反又はその違反の虞があるために競業行為の差止めを請求するには、当該競業行為により使用者が営業上の利益を現に侵害され、又は侵害される具体的なおそれがある場合であることを要するものと解するのが相当であることは既に述べたとおりであり、この実体的要件を許容しない内容の特約は、公序良俗に反して無効であるというべきである。

2  本件における競業避止義務特約の有効性

債務者伊藤真が平成三年一〇月一八日本件役員誓約書に署名捺印の上これを当時の債権者代表取締役西肇に提出したこと、債権者と各債務者との間の役員としての地位に伴う委任契約締結後に両者の間で当該委任契約の内容を本件役員就業規則の定めるところに変更し若しくは細目を補充する旨の黙示の合意がされ、当該合意により、各債務者は、債権者に対し、本件役員就業規則における退職後の競業避止義務に関する条項の内容を約定したものと解するのが相当であることは、既に述べたとおりである。

本件における競業避止義務特約は、債務者らの役員としての地位に伴う委任契約の内容をなすもので、労働契約に付随するものではないが、1で述べた考え方は、本件にも当てはまるものである。

債務者伊藤真は、昭和五六年以降債権者の専任講師を務め、昭和六一年四月に債権者の監査役に就任した後もその職務は監査役の職務にとどまらず、債権者の専任講師としての職務のほか、債権者における司法試験事業本部(後に第一事業本部に名称変更)、開発本部に所属し、開発本部長を務めるなどして債権者の最高幹部として職務を遂行しており、その職務遂行上文書管理データベースを使用して受験指導用の教材及び試験問題を作成するノウハウに関わる立場にあったものということができる。しかし、このような職務内容は、同債務者の監査役としての職務権限に含まれるものではない。しかして、債権者の監査役の職務内容が実定法上委任契約終了後の競業避止義務を肯定し得るようなものであったことの主張疎明はされていないから、本件における競業避止義務特約は、もともと当事者間の契約なくして実定法上委任契約終了後の競業避止義務を肯定し得る場合についてのものではなく、競業避止義務を合意により創出するものであることになるところ、監査役についてまで競業行為を禁止することの合理的な理由が疎明されておらず、使用者が確保しようとする利益が何か自体明らかではなく、競業行為の禁止される場所の制限がなく、同債務者に対して支払われた退職金がその金額が一〇〇〇万円にとどまり、同債務者の専任講師としての貢献が大きかったことに照らし、右退職金が監査役退任後二年間の競業避止義務の代償であると認めることはできないことからすれば、競業禁止期間が退職後二年間だけ存するという比較的短期間に限られたものであることを考えても、目的達成のために執られている競業行為の禁止措置の内容が必要最小限度にとどまっており、かつ、右競業行為禁止により労働者の受ける不利益に対する十分な代償措置を執っているということはできないから、同債務者と債権者との間の本件役員誓約書及び本件役員就業規則における退職後の競業避止義務に関する条項の内容の約定は、公序良俗に反して無効といわざるを得ない。

債務者西肇は、昭和六一年四月から平成五年一二月まで代表取締役の地位にあったのであり、債権者において反町勝夫が実権を把握していたにせよ、代表取締役として債権者の営業秘密を取り扱い得る地位にあったものといえるから、これに照らして考えると、委任契約終了後の競業避止義務を肯定し得る場合に当たり得るものと考えられ、競業禁止期間が退職後二年間だけ存するという比較的短期間に限られたものであることを併せて考えると、競業行為として禁止される職種や場所の点で問題があることを考えても、限定的な内容のものであるということができ、秘密保持義務確保の目的のために必要かつ相当な限度を超えているとは認められないから、前記競業避止義務特約が公序良俗に反して無効であるということはできない。

六 債務者伊藤真と反町勝夫との平成七年四月二四日付け覚書による合意と競業避止義務免除の成否(争点6)

第二、一、3において認定した事実に、疎甲第一八号証、同第六二号証(いずれも後記採用しない部分を除く。)、疎乙第一号証の一、二、同第二号証、同第二七号証並びに審尋の全趣旨を併せて考えれば、債務者伊藤真は、債権者の株主であり、会長の肩書を有し債権者の意思決定の権限を有する反町勝夫との間で、反町勝夫が債権者のためにすることを示して、平成七年四月二四日、覚え書を取り交わして前記のとおりの合意をしたこと、右合意に先立ち、反町勝夫が同債務者に合意案として、反町勝夫が自筆で用意し、既に署名済みの「覚え書」と題する書面を示したこと、当該書面には競業避止義務を定める特約条項として「甲(債務者伊藤真を指す。)は、乙(債権者を指す。)を退職後、乙と競合する他社(個人を含む)の業務に参画しない。甲は、乙以外の他の者と共に又はその者の下で、あるいは単独で、乙と競合する業務(講義、ゼミ、演習、出版物の刊行、その他の事業)を行わない。」と記載されていたこと、同債務者は、この文案では、前記各誓約書で債権者の従業員、役員が約定し、あるいは本件就業規則、本件役員就業規則で債権者が従業員、役員に課している退職後二年間の競業避止義務が年数の制限なく課されることになってしまい、そのような約定は無効であって、この文案を承服することはできないと考え、その旨を反町勝夫に述べ、前記文案に手を入れて、「甲は、乙を退職後、乙と競合する他社(個人を含む)の業務に参画し、若しくは甲が乙以外の他の者と共に又はその者の下で、あるいは単独で、乙と競合する業務(講義、ゼミ、演習、出版物の刊行、その他の事業)を行う場合は事前に乙と協議する。」と改めたこと、この案について両者で話し合った上、競業避止義務に関する条項については概ね同債務者の右案どおりにすることになったが、反町勝夫の意向により、同債務者が他の司法試験受験予備校大手の早稲田経営学院及び辰巳法律研究所において講義を行わないこととし、結局右条項につき「甲は、乙を退職後、乙と競合する他社(個人を含む)の業務に参画し、若しくは甲が乙以外の他の者と共に又はその者の下で、あるいは単独で、乙と競合する業務(講義、ゼミ、演習、出版物の刊行、その他の事業)を行う場合は、事前に乙と協議する。ただし、甲は早稲田経営学院及び辰巳法律研究所とは、今後一切係わりを持たない。」とすることで合意に達し、他の条項の手直しも行い、最終的に疎甲第一三号証、疎乙第一号証の二に記載のとおりの条項で合意に達し、反町勝夫が直筆で覚え書を書き上げて、同人と債務者伊藤真とが署名したこと、このようにして取り交わされた覚え書は、競業避止義務に関する条項のみならず、同債務者が行った講義、演習等で使用したビデオテープ、カセットテープ、テキスト、レジュメ、講義録その他の制作物一切の著作権、編集著作権が債権者に帰属することを確認する条項、同債務者が在職中知り得た業務に関するノウハウ、秘密を漏洩しない旨の条項、退職金の支払条項を盛り込んだもので、債権者が従業員が退職する際に署名捺印させて提出させる扱いにしている「貴社の企業秘密保持に関する誓約書」に記載されている条項(「2 わたしが業務上知り得た貴社の秘密、ノウハウ等は退職後は絶対に他人に漏洩いたしません。3 貴社を退職後も下記の行為をしないことを誓約いたします。(1) 貴社と競合関係にたつ企業に就職、出向、役員就任、その他形態のいかんを問わず二年以内に関与すること。(2) 貴社と競合関係にたつ事業を自ら二年以内に開業すること。」)に相当するもの(内容は前記のようにこれと異なっているが。)を取り込んだものとなっていること、以上の事実が認められ、疎甲第一八号証、同第六二号証の記載中右認定に反する部分は前記各証拠に照らしてたやすく採用することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

右認定事実に基づいて考えると、債権者の株主であり、会長の肩書を有し債権者の意思決定の権限を有する反町勝夫は、債務者伊藤真との間で、同債務者が債権者を退職することに伴う同債務者と債権者との間の権利義務関係について合意したものであり、右合意の内容は、従業員就業規則の適用を受ける競業避止義務(同債務者が前記誓約書を差し入れることにより、また本件役員就業規則によって変更、補充された委任契約において約定された退職後二年間の競業避止義務の特約が公序良俗に反して無効であることは既に述べたとおりである。)に関しては、これを前記のとおり、同債務者が退職後に債権者と競合する業務に関与する場合には事前に債権者と協議を要することとしつつ、事前に債権者と協議すれば債権者と競合する業務に関与することができることとすること、ただし、同債務者は早稲田経営学院及び辰巳法律研究所の業務に関与することができないこととすること、以上のとおりであったものと解するのが相当である。疎甲第一八号証、同第六二号証の記載中右認定に反する部分は採用することができない。

債務者らが、取下前債務者西村勝美とともに、平成七年六月九日、反町勝夫のほか、債権者の取締役全員に対し、司法試験受験指導を行う機関を作り、司法試験受験指導を行うなどと告げたことは前記のとおりであるから、債務者伊藤真は、右覚え書に定められた合意のとおり事前に債権者と協議して、競業行為に及んだものということができる。

七 差止請求の実体上の要件具備の有無(争点1)

差止請求をするに当たっては、実体上の要件として当該競業行為により使用者が営業上の利益を現に侵害され、又は侵害される具体的なおそれがあることを要し、右の要件を備えているときに限り、競業行為の差止めを請求することができるものと解するのが相当であることは、既に述べたとおりである。そこで、債務者西肇の競業行為に対する差止請求の可否について右の見地から判断するに、同債務者と債権者との競業避止義務を定める特約が有効であるといえるのは、同債務者が代表取締役として債権者の営業秘密を取り扱い得る地位にあったことに基づくものであるから、同債務者の競業行為により使用者が営業上の利益を現に侵害され、又は侵害される具体的なおそれがあるとは、同債務者が代表取締役として入手した債権者の営業秘密を使用し、又は使用する具体的なおそれがあるなど、同債務者が秘密保持義務に違反する行為を行い、又は違反する行為を行う具体的なおそれがあることを意味するものというべきである。しかるに、同債務者が株式会社法学館の代表取締役を務め、株式会社法学館が営業主体となって「伊藤真の司法試験塾」名での司法試験受験指導を行っていることだけでは、同債務者が秘密保持義務に違反する行為を行い、又は違反する行為を行う具体的なおそれがあると認めるに足りず、そのほかには同債務者が秘密保持義務に違反する行為を行い、又は違反する行為を行う具体的なおそれがあると認めるに足りる疎明資料はない。

そうすると、債権者は、同債務者の競業行為、すなわち、同債務者が株式会社法学館の代表取締役を務めていることに対する差止めを請求することはできないものというべきである。

八 保全の必要性(争点7)

本件仮処分命令申立事件の申立ての趣旨は、債務者西肇は、平成八年三月末日まで、司法試験受験予備校及び塾の営業をし若しくはそれらを営業する会社の役員となり、又は司法試験受験予備校及び塾に勤務し若しくはそれらにおいて講師業務をしてはならないというものであるが、債務者らが現に行っている競業行為は、債務者ら及びその親族が役員を務めている株式会社法学館が営業主体となっている「伊藤真の司法試験塾」名での司法試験受験指導であり、債務者らは、それ以外には競業行為を行っていないし、行うおそれも認めることができない。ところで、債権者が債務者伊藤真に対して競業避止義務を定める特約、本件就業規則に基づく競業行為の差止請求権を有しないことは、既に述べたところから明らかである。そうすると、債務者伊藤真が講師となって「伊藤真の司法試験塾」名での司法試験受験指導が行われることによって仮に債権者に著しい損害が生ずるとしても、債務者西肇が株式会社法学館の代表取締役として競業行為に関与することを差し止めることによってその損害の発生を回避することができることを疎明しない限り、平成七年一二月七日(同債務者が債権者の代表取締役を辞任したのは、平成五年一二月七日であるから、委任契約に伴って認められる競業避止義務の終期は平成八年三月末日ではなく、平成七年一二月七日となる。)までの間、債務者西肇の競業行為を差し止める必要性を認めることはできないというべきであるが、右の回避可能性を認めるに足りる証拠はない。

したがって、平成七年一二月七日までの間、債務者西肇の競業行為を差し止める必要性を認めることはできないといわざるを得ない。

九 結論

以上の次第であって、債務者伊藤真に対する申立てについては被保全権利の存在を認めることができない。また、債務者西肇に対する申立てについても、差止請求の実体上の要件を備えていないので、結局被保全権利の存在を認めることができないほか、保全の必要性を認めることもできない。よって、債権者の本件申立てはいずれも却下することとし、主文のとおり決定する。

(裁判官髙世三郎)

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